40年近くかけて神経症性障害を乗り越えたものの、母親の介護で大変な日々の思いを発信しています。アニメの研究による博士号取得は、しばらくお休み。

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私は、親の介護のためだけに生きていませんから

先日、ふとしたことから、タイトルのような言葉が、頭の中に響いた。

それは、そうだろう。人は、自分以外の誰かのため❝だけ❞に生きるものではない。私は、親の介護のためだけに生きてはいない。
自分の生活、自分の仕事、自分の人生。それを守ることが悪いことであるはずはないのである。

この言葉の元ネタになったものは、いくつかあるだろう。
ひとつは、パールズの「ゲシュタルトの祈り」の中の、以下のフレーズ。

❝I am not in this world to live up to your expectations❞
(私は、あなたの期待に応えるために、この世に存在しているわけじゃない)

もうひとつは、毎日プレイしているネットゲームの中で、あるライトユーザーが記していた言葉。
「(私は、一部のユーザーと違って)ゲームをやるためだけに生きていません」

手のあいている時間のみにプレイすればよい「放置系ゲーム」を謳っているのに。
本当にガチでプレイするためには、最低でも4時間、場合によっては一日中、ゲーム画面に張りついていなければならないなど、相当な時間と労力を注ぎ込まねばならない、そのゲーム。
プレイヤー本人が、起きている時間のほぼ全てをゲームに注ぎ込むのは、その人の勝手であるが。
他人にまで、そうした張りつきプレイを要求するかのような言説に対する、抵抗の弁が、これである。
大部分の人にとってネットゲームなど、あくまで余暇にやる程度のものであるだろうし、そうであるべきだろう。

こうした言葉が、頭の中に残っていたため、それらを素材として、今回の脳内発言となったわけだ。

たとえ現在の私の介護のやり方が、介護のコーディネートに携わる者からしたら、不十分で中途半端なものであったとしても。「無理だから、やらない」と言っていることが、「やってできないはずはないこと」「無理なわけがないこと」であっても。
「ほとんどの利用者は、普通にそうしているのだから、どこがどう無理なのか、全くもってわからない」ことであっても。

それをする当人が無理だというのだから、それは無理なのだ。
「実際に介護に当たっている者の生活状況や、心身の健康がどのような状態にあるか」を全く知らない、知ろうともしない赤の他人が、一般的な理屈だけで、何を言えるというのか。

「無理なはずはない、やればできるはずだ」と無理矢理にやらせて、その挙げ句に、自☆や介護☆人という、「最悪の事態」が生じたとしても。そういう人たちが、責任を取ってくれるわけではないだろう。

「なんで、当人の苦しみに気づいてあげられなかったのだろう」とか「こうなる前に、SOSを出してくれていたら……」などと、事が起きてしまってから寝言を言っても。
「無理だ」と言っているのを信じないで、無理にやらせたのはそちらではないですか、ということになる。

私は、そんな事態はゴメンである。そんな事になる前に、自衛するだけだ。

そしてたぶん。そのような「自衛のための安全弁」といったものが、私には、働きやすいのだと感じる。
「本当にもう、無理」な時には、頭でそう判断するより前に、体が動かなくなる。その無理な事が、行えなくなる。
それはたぶん。ギリギリのところで自身の人生を守る、必要な技術なのだろう。


以下、余談。
つくづくと思った。「私は、親の介護のため❝だけ❞に生きていない」のと同様に、「友人のため❝だけ❞に生きてもいない」のだと。

たとえ、その友人のためにあれこれと調べたり考えたり、休日を丸一日潰してメッセージをしたためたりすることが、苦ではなかったとしても。
やはり、ある程度のラインを越えてしまうと、「もう、無理」になってしまうのだと。

治療契約を締結してのセラピーであれば、時間と労力の制限がある。治療の場以外での関わりもないから、プライベートを侵食されることもない。
だが私的な友人関係には、そういった制限が、安全弁が存在しない。

それ故に、巻き込まれ・共揺れ・自我の侵食・燃え尽き等々が、起こり放題である。
大事な仕事の最中に、我慢できなくなって、コメントの返事を書いてしまう。腹が立って仕方がなく、どうしても言ってやりたくなったこと、言わないと気が済まないことを、書き始めてしまうなど、世も末である。
そして、そうまでして言ってやったことが、相手には伝わらない。自分の気を済ませるためには、さらにまた、言葉を重ねなくてはならなくなる。

そうでなくとも、私自身、いまだ自我境界が曖昧で、人間関係で病みやすいというのに。
おひとりさま介護で大変な日々の中、頻繁に怒り発作を起こし、心理治療家の支援を受けているというのに。
仕事の方も、勤務先関連会社の廃業や組織変更によって仕事量が増え、残業や持ち帰りの仕事が増えたため、心身のゆとりのみならず、時間的なゆとりもなくなっているというのに。

そんな状態にある者が、溺れている人を助けに行っても、助けたかった人を助けることはできない。共に溺れてしまうのが関の山だ。
あるいはまた、溺れていた当人は他の人に助けられたのに、助けに行った者は溺死してしまったなどという、別の意味で救いのない結末を招いてしまう。

だからきっと。自分が壊れないためのセーフティロックがかかり、年末年始にたくさん書くつもりだったのに、何も書けなかった。書きたいこと、というよりは(悪い意味で)言ってやりたいことは山程あるのに、なぜだか急に、何も書けなくなった。
それはつまり、こういうことなのだろうと思う。

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テーマ : メンタルヘルス
ジャンル : 心と身体

Tag : 介護  ネット  支援 

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| 2023/01/16 19:37 [ 編集 ]


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プロフィール

ハナさん*

Author:ハナさん*
2019.5.26付けで、Yahoo!ブログから移行してきました。
上記日付より前の記事は、Yahoo!ブログで書かれたものです。

移行から2年経過したのを機に、ブログタイトルを変更いたしました。
あわせて、紹介文も更新。

*代用ゲストブックあり
「カテゴリ」からどうぞ

〔ブログ紹介文〕
誰もが、たやすく発信者となれるネット時代。

文章で社会改革ができると思い込んでいたのは、若さゆえの過ちにすぎない。
けれど。
それでもまだ私は、文章を公表することは、無意味ではないと信じたい。

私がここに記すのは、単なるつぶやきの類いではない。
社会に向かって訴えたいこと、公表する意味があると思えることのみだ。
若い頃のように気負い込んで、大声で叫ぶことはできないけれど。

病気ではなく、障害でもなくても。諸々と生きづらい、おひとりさま介護の日々においても、光を求めて!

〔自己紹介〕
高校1年で発症した神経症性障害(身体表現性障害[身体症状症]その他)を、40年近くかけて乗り越える。
校正者として、非正規雇用勤続30年。数年前から校閲の仕事も行う。

1990年代、森田療法の研究で学士号取得後、カール・ロジャーズの直弟子が講師であるカウンセラー養成講座で単位取得。
地元の民間心理相談機関でセラピストのインターンとなり、各種心理療法を学修するが、自分は援助職には向いていないことを痛感。

アニメーションの研究で修士号取得。
博士課程・単位取得満期退学。
現在、博士論文のテーマを再検討中。専門は、巨大ロボットものの予定。

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