03.15
病病介護短歌:三十年[みそとせ]も此処にとどまり……
勤続30年目に入りて詠める
三十年[みそとせ]も此処にとどまり花咲けど
実れる時のきたるものかは
*社会復帰訓練のため、数年間勤めるだけのつもりだったパート勤務が、ついに勤続30年目に突入した。
数年前から、グループ会社全体で私しかできない校閲の仕事を任されるようになったせいもあり、この場所で非正規雇用のまま、定年まで勤める覚悟も決まった。
自分の知識や能力を最大限に活かし、自分にしかできない仕事をすることには、大きなやりがいを感じる。
校閲の仕事をしている毎日は充実感に満ち、会社で働いている最中の私は、輝いていられる。
仕事を通して、人文・社会・自然科学の最先端の知見に触れられることは、この上もなく興味深く、役得だと感じる。
長い雌伏の時を経て、ようやく、花咲ける時が来たのだと、そう感じるのは確かなことである。
「置かれた場所で咲いてしまった─収入よりやり甲斐を」
https://flowerhill873.blog.fc2.com/blog-entry-107.html
「病病介護短歌:我にしかできない仕事もつことは……」
https://flowerhill873.blog.fc2.com/blog-entry-457.html
だがしかし。同時に。
私の仕事人生は、これだけで終わってしまうのかと思うと、やはり寂しくなる。
他の人の手がけた文章が、書籍が、少しでもよいものとして世に出るお手伝いをすること。
それはそれで、もちろん重要なこと、大切なことだ。
だがやはり。私が私自身の名において成したものが、何ひとつ世に出ることなく終わってしまうこと。それは私にとって、何事も成し得ぬままに終わること、実りを得ることなく終局を迎えることに等しい。
校正・校閲は裏方の仕事であって、それを手がける者は、縁の下の力持ちとなり、決して表舞台に出ることはない。
そんなことは、わかり切っていたはずなのに。
自らが書いたものを世に出すのは、定年後の第二の人生になってから。
それまでは、校正・校閲の仕事で生きざるを得ない。それは自分の人生の帰結として、仕方ないことなのだと、割り切ったはずであるのに。
校正・校閲のような仕事が性に合っており、この場所で輝いていられる、花を咲かせているというのは、もちろん嘘ではない。
だがやはり私には、それだけでは満足できない、それで終わってしまったのでは、花は咲いても実がなったとは感じられない、そうした欲のようなものがある。
そんなことを痛感した、30年目の早春であった。
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