11.21
病病介護短歌:人はみな違う世界に住んでいる……
人はみな違う世界に住んでいる
それを互いに認められれば
*認知症の母は、かなり改竄された記憶と、自分の想像や妄想や独自の解釈が入り交じった、己の世界に住んでいる。
それはもう、どうしようもない。それらがどれ程、現実と異なっていようと。そういうものとして、認めることはできなくとも、スルーできるようにならなくては、母の介護はやっていけない。
あるいはまた、日々の人間関係においても。物事に関する解釈は、人それぞれに違ってしまうものだ。
その人の経験に由来して、様々なバイアスがかかってしまうから。ひとつの言葉に関する解釈すら、その人のそれまでの人生・生活経験によって、独特の意味づけがなされてしまいがちだ。
同じ事柄を体験しても、それをどのように感じるか、どう受け止めるか、どんな影響を受けるかは、その人の立場や、ものの見方・考え方、人生観・世界観、気質や感受性等々によって、全く違ったものになってしまう。
同じものを見ているようでいて、実は全く違うものを見ている。同じ世界に生きているはずなのに、実は互いに異なる世界に住んでいる。同じことを経験したはずなのに、その解釈や理解の仕方が、似ても似つかないものになっている。
そういうことは、枚挙にいとまがない。
それでも。相手の理解を、誤りと否定はせず尊重するかわりに。私のそれも、ひとつのあり方として、認めてほしいなと思う。どちらか一方のみが正しいのではなく、どちらも「あり」なのだと。
「ひとりで勝手に傷ついたお前が悪い」のであって、「自分が傷つくような言動をした周囲を責めたり、悪く言うのは間違いである」。
「悪いのは、無用な深読みな歪んだ解釈をしたり、過敏すぎるお前の方だけであって、周囲の人々は少しも悪くない」のだから、「自分が傷ついたなどと言って、周囲を責めるような真似をするのは、さらに過ちを重ねることでしかない」と、そんなことを言われ続けてきた。
そんな風に感じるのは間違いである。そんなことで傷つくのは、お前が悪いのだと、自分の自然な感じ方や感性のあり方を、否定され続ける日々を過ごしてきたけれど。
それでも今は。
「自分がそう感じてしまった」ということ、「(適切か否かはともかくとして)自分の心はそう反応してしまったのだ。そうならざるを得なかったのだ」という、どうしようもない事実自体は、認めてあげられるようになっている。
これはこれで、かなりな進歩なのだと思う。
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