40年近くかけて神経症性障害を乗り越えたものの、母親の介護で大変な日々の思いを発信しています。アニメの研究による博士号取得は、しばらくお休み。

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「親のこんな姿は、見たくなかった」の真意──我が内なる差別心

以前、「身体抑制(拘束)は、必要悪か?」という記事(http://blogs.yahoo.co.jp/chp31240/65565424.html)において、以下のように記した。

※※※※※
(術後せん妄のため)抑制帯で車椅子につながれた母の姿を、最初に見たときは……「母親のこんな姿は、見たくなかった」と、思ってしまった。
その思いに潜む、私自身の、考え方のあれこれは、今は問わない。
※※※※※

このようにして、自身の詳しい思いを記さずに済ませたことで、要らぬ誤解を招いてしまったような気がする。
私のこの感じ方が、どのような思いに由来するものであったかが、読者に伝わらなかったと思うのだ。
ある程度、時間と心にゆとりが出てきた今、この件について、キチンと記してみたい。

「親のこんな姿は見たくなかった」の、こんな姿というのは、「車椅子に縛りつけられた姿」のことではない。「正気を失って拘束が必要になってしまった姿」のことである。
問題なのは、拘束を受けていることではなく、正気を失ったこと。理性や知性を失い、獣のように喚くだけの存在になってしまったことである。

あまりよい喩えではないかもしれないが、逮捕されて手錠をかけられた親の姿を見て、ショックを受けたとする。
それは、手錠をかけられたこと自体がショックなのではなく、親が逮捕されるようなことをしたこと、犯罪を犯したこと(厳密には、逮捕されただけでは、犯罪者と確定されてはいないわけだが)が、ショックなのであるだろう。それと、同じことである。

哲学思想のなかには、人間の人間たる所以、動物と人間を分けるものは、理性であるとするものが多い。
そして私も確実に、人間の理性・知性というものに、重きを置いている。自分が比較的理知的であると、自負している。

パニック発作や怒り発作を起こし、周囲からは狂乱していると見えるときであろうと、我を忘れることはない。冷静に自己を観察する自分というものが、常に存在する。自分のそのようなあり方に、ひそかな満足感をもっているのである。

そんな私にとって、自分の母親─自分がその胎内で育まれ、そこから出てきた存在─の、そのような姿は、「自分もいつかはそうなるのか」という、恐怖を呼び起こすものに他ならない。
自分は、こんな狂態をさらすくらいなら、死んだ方がマシだと、感じるのであるのに。

そう。結局のところ、問題なのは、自分のことなのである。
「『火の鳥 鳳凰篇』より「傷だらけの翼」」の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/chp31240/65652517.html)で書いたように、10代の私は、自分が勉強しかできないことに、強いコンプレックスをもっていた。
それは同時に、「勉強のできる自分」というものへの、こだわりも生む。
「どんなに勉強ができても、それだけでは、生きる価値がないダメ人間」であるのなら、勉強すらできなくなってしまったら、本当に全く、生きる価値がなくなってしまうではないか。
そういった、自身の「知的な営みにおける優秀さ」へのこだわり、あるいは自負は、異常な自己無価値感・罪責感を脱した今でも、残っている。

そう。はっきり言って、私は、自分が理知的であること、知的に優秀であることに、自負を感じている。
もはや、それを否定することはしない。
そのことをもって、お高いとか、周囲を見下していると解されてしまったとしても、悲しいけれど、もはや仕方がないことだと思う。

重ねて言う。これはあくまでも、自分自身に関しての話である。
正気を失った母親のことを、もはや人間とは言えないなどと、言うつもりはない。
障害や病気によって、平均的な知性や理性を欠いている方々のことを、生きている価値がないとか、そんな風に評するつもりもない。
昨年物議をかもした、相模原殺傷事件の、犯人の考え方に与するつもりは、断じてない。
従姉には、軽度の知的障害者がいる。不登校を治療するために入った福祉施設には、中度の知的障害児が何人もいた。知的障害者に対する偏見は、むしろ平均よりも、少ない方だと思う。
人間というものは、ただ、生きているだけで尊い。シュバイツァーの言う生命価値・生命への畏敬の思想は、正しいのだと思う。

それでもやはり。
「親のこんな姿は見たくなかった」と思ってしまった私は、自身の中に、相模原殺傷事件の犯人と同じもの─差別意識や選民思想─があるのではないかと、恐怖したのである。

それから3カ月近く、自身の考えをまとめ、このように記すに至ったものの、自身の内に、本当に差別意識がないとは言い切れないという、怖れも感じる。
それでも、理知的な思考の領域では、このように考えているということも、真実である。
それは決して、偽りではない。そのことは、断言しておきたい。
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C

omment

No title
私はハナ*さんの身体拘束の記事とコメントを読んで頭が混乱しました。それは私のクセである色々な思いを混乱させてしまうことによります。
私は、ハナ*さんと、コメントを寄せられている方の仰っていることの根源が同じである、と思いました。でもそれを論理的に考えることが出来ませんでした。今回のハナ*さんの記事を読んで頭がすっきりしました。
身体拘束により、生じた感情には、「親に対する思い」「自分に向けられる思い」「医療従事者、社会への怒り」がある、それは誰でもそうなのだと思います。そのどれが一番強いか、自分の感情の矢がどこに矢が向くか、それがその人のその人たる所以になっていくのだろうと思います。同じ個のひとでも、その時どきによって感情の振れ方も違うのでしょうけれども。

sherusheru URL | 2017/02/12 11:10 [ 編集 ]

No title
相模原の事件で私は「私も、生きていてはいけない人間なのに生きてしまっている」と大いに感情を揺さぶられました。
ハナ*さんは、自己無価値観や罪責感を脱せられた、冷静に自己を観察することができる、と書いていらっしゃいますね。その道程はどんなものだったのでしょう?今の私は、その答えが知りたくて毎日あがいています。そんなことをハナ*さんのブログで学んでいけたらなあと思います。

sherusheru URL | 2017/02/12 11:11 [ 編集 ]

No title
> sherusheruさん
コメント、ありがとうございました。
リコメが遅れて、申し訳ありません。

そうですね。
同じ事柄に対して、どういう立場から、どこに向かってものを言うか。あるいは、素直な感情を元にして発言するか、理屈を元にするか。
それらの違いによって、全く違った発言がなされる。それらは立脚点が違うから、話が噛み合わず、議論も成立しない…ということがあるのだと思います。

記事を書いた私と、コメントをした方の「根源が同じ」というご指摘は、新鮮でした。
確かに、言っていることは真逆のようでも、視点や立脚点の違いを抜きにして考えてみれば、そう見ることも可能ですね。親への思い、という点において。

ハナさん* URL | 2017/02/25 17:18 [ 編集 ]

No title
> sherusheruさん
私が如何にして、自身の自己無価値感や自己罪責感、あるいは過剰な劣等感を克服する─というよりは、乗り越える、いや「それらを感じなくとも済むようになった」と言うのが、正確なところでしょう─に、至ったのか?

それについては、いずれ「『光を見つめて』再び」というタイトルで、連載記事を書く際に、記すことができると思います。
現在の状況では、いつになるかは、わかりませんが。
あまり期待しないで、お待ちいただければ、幸いです。

ハナさん* URL | 2017/02/25 17:25 [ 編集 ]

No title
心のこもったリコメをありがとうございました。嬉しかったです。
消されてしまったコメント、私も覚えています。私もあの方のコメントには、はっとさせられました。逆の立場からの観点であることに。投稿主の方からご連絡を頂けて良かったですね。ハナさん*がいかに渾身の力を込めて記事を書いていらっしゃるかよくわかりました。だからこんなに私も嬉しいんだなと思います。ありがとうございました。

sherusheru URL | 2017/02/28 07:28 [ 編集 ]


T

rackback

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プロフィール

ハナさん*

Author:ハナさん*
2019.5.26付けで、Yahoo!ブログから移行してきました。
上記日付より前の記事は、Yahoo!ブログで書かれたものです。

移行から2年経過したのを機に、ブログタイトルを変更いたしました。
あわせて、紹介文も更新。

*代用ゲストブックあり
「カテゴリ」からどうぞ

〔ブログ紹介文〕
誰もが、たやすく発信者となれるネット時代。

文章で社会改革ができると思い込んでいたのは、若さゆえの過ちにすぎない。
けれど。
それでもまだ私は、文章を公表することは、無意味ではないと信じたい。

私がここに記すのは、単なるつぶやきの類いではない。
社会に向かって訴えたいこと、公表する意味があると思えることのみだ。
若い頃のように気負い込んで、大声で叫ぶことはできないけれど。

病気ではなく、障害でもなくても。諸々と生きづらい、おひとりさま介護の日々においても、光を求めて!

〔自己紹介〕
高校1年で発症した神経症性障害(身体表現性障害[身体症状症]その他)を、40年近くかけて乗り越える。
校正者として、非正規雇用勤続30年。数年前から校閲の仕事も行う。

1990年代、森田療法の研究で学士号取得後、カール・ロジャーズの直弟子が講師であるカウンセラー養成講座で単位取得。
地元の民間心理相談機関でセラピストのインターンとなり、各種心理療法を学修するが、自分は援助職には向いていないことを痛感。

アニメーションの研究で修士号取得。
博士課程・単位取得満期退学。
現在、博士論文のテーマを再検討中。専門は、巨大ロボットものの予定。

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