02.12
「親のこんな姿は、見たくなかった」の真意──我が内なる差別心
※※※※※
(術後せん妄のため)抑制帯で車椅子につながれた母の姿を、最初に見たときは……「母親のこんな姿は、見たくなかった」と、思ってしまった。
その思いに潜む、私自身の、考え方のあれこれは、今は問わない。
※※※※※
このようにして、自身の詳しい思いを記さずに済ませたことで、要らぬ誤解を招いてしまったような気がする。
私のこの感じ方が、どのような思いに由来するものであったかが、読者に伝わらなかったと思うのだ。
ある程度、時間と心にゆとりが出てきた今、この件について、キチンと記してみたい。
「親のこんな姿は見たくなかった」の、こんな姿というのは、「車椅子に縛りつけられた姿」のことではない。「正気を失って拘束が必要になってしまった姿」のことである。
問題なのは、拘束を受けていることではなく、正気を失ったこと。理性や知性を失い、獣のように喚くだけの存在になってしまったことである。
あまりよい喩えではないかもしれないが、逮捕されて手錠をかけられた親の姿を見て、ショックを受けたとする。
それは、手錠をかけられたこと自体がショックなのではなく、親が逮捕されるようなことをしたこと、犯罪を犯したこと(厳密には、逮捕されただけでは、犯罪者と確定されてはいないわけだが)が、ショックなのであるだろう。それと、同じことである。
哲学思想のなかには、人間の人間たる所以、動物と人間を分けるものは、理性であるとするものが多い。
そして私も確実に、人間の理性・知性というものに、重きを置いている。自分が比較的理知的であると、自負している。
パニック発作や怒り発作を起こし、周囲からは狂乱していると見えるときであろうと、我を忘れることはない。冷静に自己を観察する自分というものが、常に存在する。自分のそのようなあり方に、ひそかな満足感をもっているのである。
そんな私にとって、自分の母親─自分がその胎内で育まれ、そこから出てきた存在─の、そのような姿は、「自分もいつかはそうなるのか」という、恐怖を呼び起こすものに他ならない。
自分は、こんな狂態をさらすくらいなら、死んだ方がマシだと、感じるのであるのに。
そう。結局のところ、問題なのは、自分のことなのである。
「『火の鳥 鳳凰篇』より「傷だらけの翼」」の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/chp31240/65652517.html)で書いたように、10代の私は、自分が勉強しかできないことに、強いコンプレックスをもっていた。
それは同時に、「勉強のできる自分」というものへの、こだわりも生む。
「どんなに勉強ができても、それだけでは、生きる価値がないダメ人間」であるのなら、勉強すらできなくなってしまったら、本当に全く、生きる価値がなくなってしまうではないか。
そういった、自身の「知的な営みにおける優秀さ」へのこだわり、あるいは自負は、異常な自己無価値感・罪責感を脱した今でも、残っている。
そう。はっきり言って、私は、自分が理知的であること、知的に優秀であることに、自負を感じている。
もはや、それを否定することはしない。
そのことをもって、お高いとか、周囲を見下していると解されてしまったとしても、悲しいけれど、もはや仕方がないことだと思う。
重ねて言う。これはあくまでも、自分自身に関しての話である。
正気を失った母親のことを、もはや人間とは言えないなどと、言うつもりはない。
障害や病気によって、平均的な知性や理性を欠いている方々のことを、生きている価値がないとか、そんな風に評するつもりもない。
昨年物議をかもした、相模原殺傷事件の、犯人の考え方に与するつもりは、断じてない。
従姉には、軽度の知的障害者がいる。不登校を治療するために入った福祉施設には、中度の知的障害児が何人もいた。知的障害者に対する偏見は、むしろ平均よりも、少ない方だと思う。
人間というものは、ただ、生きているだけで尊い。シュバイツァーの言う生命価値・生命への畏敬の思想は、正しいのだと思う。
それでもやはり。
「親のこんな姿は見たくなかった」と思ってしまった私は、自身の中に、相模原殺傷事件の犯人と同じもの─差別意識や選民思想─があるのではないかと、恐怖したのである。
それから3カ月近く、自身の考えをまとめ、このように記すに至ったものの、自身の内に、本当に差別意識がないとは言い切れないという、怖れも感じる。
それでも、理知的な思考の領域では、このように考えているということも、真実である。
それは決して、偽りではない。そのことは、断言しておきたい。
- 関連記事
-
- パラリンピックに向けて、某所で「パラスポーツを応援したくなる映像」募集中! (2017/09/11)
- 奥様など、我が家に存在しません─家族に関する固定観念 (2017/03/11)
- 免罪符としての検索募金 (2017/03/11)
- 脊柱管狭窄症は、麻痺が出たら即手術せよ!─手遅れにならないために─ (2017/02/25)
- なぜ、アンデルセン?──長野灯明まつりのコンセプトへの疑問 (2017/02/13)
- 「親のこんな姿は、見たくなかった」の真意──我が内なる差別心 (2017/02/12)
- 善光寺・平和への祈り:第十四回 長野灯明まつり (2017/02/11)
- 身体抑制(拘束)は必要悪か?―看護・介護現場の理想と現実― (2016/11/28)
- 無敵の言葉ふたつ (2016/11/27)
- 持つべきものは地縁 (2016/11/06)
- 終わったら赤飯─更年期万歳! (2016/10/29)