40年近くかけて神経症性障害を乗り越えたものの、母親の介護で大変な日々の思いを発信しています。アニメの研究による博士号取得は、しばらくお休み。

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随時追記ごとに更新「……一大決心をして、新たな一歩を踏み出した件」の続報

2019/10/20 23:19:19 初掲載
(記事管理上の都合で、今後は、追記を記入するごとに、日付を更新することとする。)

先日、「この連休に一大決心をして、新たな一歩を踏み出した件」
https://flowerhill873.blog.fc2.com/blog-entry-266.html
という記事を書いて、新たな道を踏み出したと語った。

その後の経過については、上掲記事のコメント欄で、リコメの形で報告している。だが、読者の方にわかりやすいように、あらためて記しておこうと思う。

新たな一歩となる行動の、申し込みをしたのは10月14日である。だが、それを実際に行うことができるのは、直近でも、11月に入ってからと決まった。それまでは、色々と準備はするものの、具体的な動きはないわけだ。

それにしても。本来ならば30年ほど前、20代のうちに行えれば望ましかったことを、なぜ、今になるまでできなかったのかと、驚き呆れる。
似たもので代用して済ませるのではなく、なぜ最初から、素直にそれを行わなかったのかと。
50代も半ばになって、本当にもうどうしようもなくなるまで、何ゆえに、この道を選ばなかったのかと。

とはいえ。自分としては、その答えははっきりとわかっている。あの時やあの時には、やはりどうしても、そうできない理由、それを選び難い理由があったのだと。
だから、たとえ自分に甘いと言われてしまおうと、自分のその時々の選択を責めること、否定することはできない。

私はいつでも、己が置かれた状況において、熟考の末に、今の自分に可能な、最善の道を選択してきたという自負がある。
だから、たとえ結果としては失敗だった、今にして思えば誤った選択だったと思えるようなことであっても、不思議なほど、後悔はない。全ては、自分が主体的に選択してきた結果であるのだから、それをこの身で引き受けることには、何の躊躇もないのだ。

ところで、私がその道を選べなかった最大の理由は、やはり金銭的な問題である。
大学院の博士課程であれば、己の生涯の夢を果たすためには是非とも必要だと思われたから、高額な学費を払い、勤務を休み、高い交通費と時間ををかけてまで通学した。そうまでするだけの価値があると判断したから、その道を選んだわけだ。

それに対しこの道は、今の今になるまで、それだけのお金と時間と労力をかけてまで、行う価値があるとは思えなかった。非正規雇用で薄給の自分にとっては、かなりの負担である費用を払っても、それに見合うだけの成果が得られるとは思えなかった。だから、この道を選ぶには至らなかったのだ。

それが今回、病病介護が行き詰まって、もうどうしようもなくなった今、様々な状況がうまく作用して、高い交通費と、遠方まで通う時間をかけずとも、それを行える道を見出すことができた。
そうしたうまい流れを捉え、この機を逃してはならぬと、思い切ってそのチャンスを掴み取った。そういうことである。

その後の経過を、とりあえずここに追記。
成果が出てきたら、記事にする。
それまでは、ここに記録のみ。

11/2(土)初回
15:00~16:00

11/12(火)2回目
19:00~20:00

11/23(土・祝)3回目
17:00~18:00

12/3(火)4回目
19:00~20:00

なかなか、1週間ごとの予約は取れない。
それだけ混み合っている=需要があるということだろう。

12/10(火)5回目
19:00~20:10

何とか、1週間ごとの予約が取れた。
あらためて考えてみると、1回分の費用は、私の1日分の稼ぎに等しいのだ。結構な出費である。

ある事情で、10分延びてしまった。延長は、10分ごとにプラス1500円。
元々の料金からすると、適正な時間割だ。
ドライではあるが、れっきとした時間割りの契約であるのだから、むしろ、その方が望ましい。
ダラダラと延びてもナアナアで済ませる方が、好ましくない。

これは、おままごとではない。決められた枠の中での、真剣勝負なのだから。

12/17(火)6回目
19:00~20:00

毎週、この時間に行うのが習慣になってきたようだ。成果は、どうなのだろう……?

12/24(火)7回目
19:00~20:00

今年は、これで終了。
さすがに大晦日はやっていないから。

次回は、間が2週間もあいてしまうと効果が落ちるので、約10日後に入れてもらった。

〔12/31 16:00追記〕
*一応、こちらにも書いておく。
年末に、可燃ゴミの袋を5個、資源物(廃プラスチック)の袋を1個、集積所に持っていくことができたのは、これの成果があがってきたからなのかもしれない。
詳細は、
https://flowerhill873.blog.fc2.com/blog-entry-320.html
を参照のこと。

1/4(土)8回目
17:00~18:00

※(よい意味での)泣き初め。
 というか。近年は、癒しのために泣くことも、ほとんどなくなってしまっていた。

1/14(火)9回目予定
19:00~20:00

火曜日の夜に固定されると、生活のリズムができるので、1週間後ではなく、ここに入れてもらった。

※先方都合によりキャンセル
「一大決心による新たな試みが、先方都合で中断してしまった件」
https://flowerhill873.blog.fc2.com/blog-entry-331.html
参照のこと


☆案外と早く回復されたようなので、1週間後に予約を入れてもらう。

1/21(火)9回目
19:00~20:10

※あれほど心配したのに、結局、1週間休んだだけで再開できた。やれやれ。

1/28(火)10回目
19:00~20:10

※アイツのことに関し、まだ、こんなにも激しい思いが残っていたとは。
やはり、他者に、専門家に聴いてもらうというのは、明確に違う。

2/4(火)11回目
19:00~20:00

2/11(火)12回目
19:00~20:00

祝日も、やっているんだ……。

※やはり、キチンと聴いてもらうと(←ここが大事。そうでなければ意味がない)、自分の中だけで考えていてはわからないことが、わかる。気づけないことに、気づける。
そういうものだ。
どんな天才外科医も、自分自身の手術はできないように。自分自身の心も、また。

2/19(水)13回目
19:00~20:00

2月のこの週以降は、平日の夜に空いている日がここしかないというので、2/4には、次々回の予約も入れてもらった。

※今回、あらためてつくづくと実感した。

私がやろうとしていること、取り組んでいることは、ずっと心の奥底に押し込められていた心の問題を探し出し、それと向き合って、解きほぐしてゆくこと。
今を乗り越えていくために必要なのは、そうした複雑で困難な営み。長い時間と労力をかけ、じっくりと腰を据えて、取り組まなければならないもの。

お手軽に「症状」だけをどうにかしようとするような、認知行動療法などとは、根本的に異なるものだ。
だから、たかだか数カ月で、目に見える変化が現れないとか、「症状」が軽減されないとか、それは、当たり前のことなのだ。
元々、そういう速効性を求めるのは、誤りであるアプローチであるのだから。

2/29(土)14回目
13:00~14:00

2月の最終週は、平日の夜は空きがなく、土曜日しか空いていないというので、この時間に入れてもらった。
最低でも、1週間に1回が望ましいのだが、仕方がない。

3/10(火)15回目
19:00~20:00

やはり、1週間ごとの予約は取れず、次も10日後となった。次で15回。早いのか遅いのか。まだ、なのかもう、なのか。
何にせよ、少なくとも、無駄ではない。意味はない・価値がない、ではない。
焦らずに、共に積み重ねてゆこう。

*実行後の覚え書き*
こうやって、「本物」を受けてみると、20代後半に受けたものが、いかに紛い物にすぎなかったのかを、痛感する(ただまあ、あの時のアレは、卒業してパート勤務を始めるという、表面的な行動の改善≒社会復帰には有効だったのであるから、無駄ではなかったのだが)。

そうした紛い物しか知らなければ、「こんなものを受けたって、なんにもならない」とか、「高額な費用を払ってまでやる価値はない。それに見合う効果は得られない」と思ってしまうのは、無理からぬことだ。

だが、あの頃は。市内には、あそこしかそうしたものを受けられる場がなかった。
だから、たとえ代用品の紛い物でも、それを選ぶしかなかったのだ。東京まで通うわけにはゆかなかったから。
在京中に受けられなかったことが、返すがえすも悔やまれる。

それでも、たとえどれほど時機に遅れても、遅きに失した感があっても、今からでもやることは、決して無駄ではないと思う。

3/17(火)16回目
19:00~20:00

*「彼女」とのことは、3回かけても、まだ、もう少しかかりそうだ。
本当に、彼女とのことは、私にとってそれだけの深い傷であったようだ。
彼女が放った棘だらけの言葉のツルは、30年以上かけて伸び続け、私の人生に複雑にからみつき、食い込んで、私を縛っていた。その支配から脱しなければ、私は自分にとって最も大切なことを十全に行えない。博士論文も書けないどころか、そのための研究・考察すら行えない……状況になっていたのであるから。

こうなってしまったら、もう、自分だけで洞察してわかっても、それだけではどうにもならない。やはり、「人は、人によりてのみ」なのである。

3/24(火)17回目
19:00~20:00

*咳が出はじめたので、時々咳き込みながら。

「彼女」とのことは、とりあえず今回で完了。
とはいえ、もう既にかなりの部分は私の内部で終了しており、あとはキチンと聴いてもらえさえすれば済む、仕上げの段階にさしかかっていたのだと思う。

そうした意味では。
かつて、あるブログのコメント欄で、「私の中の彼女」という表現に着目して、その意味を解釈(自分の一番の断罪者は自分自身)してくれた方に、感謝である。
その時点では、その意味が理解できなかったが、少し経ってから、その意味するところがわかり、納得することもできた。
私の心のあり方に難癖をつけてくる、クサシ屋の「私の中の彼女」は、既に私自身の一部でしかない─いわゆる内面化された存在である─のだと。

その理解こそが、「私の中の彼女」の呪縛を振り払ううえで、何よりも重要なことであったから。

その方が、このブログを見てくださっているのかは、わからない。
それでも、この場で、感謝の念を明確に表明しておきたいと思うのだ。
(他の方に他の場所でしてもらったことについて、この場で語るのも変だが、ここ以外に書きようもないので、ここに記すことにする。)

3/31(火)18回目
19:00~20:00

あいつや彼女のことにせよ、今回の、あの婦人科にいた精神科医のことにせよ、もう30年以上も前のことであるというのに。
まるで、昨日のことででもあるかのように、鮮明に覚えている。あの時の侮辱されたという感じ、屈辱と怒り、心の痛みと悲しみは、今でもハッキリと、私の中に残存していた。
私にとっては、少しも過去のことになっていなかった。

引きずっている、心がそこに残っている、というようなことではなく(この表現ならば、少しは前に進んでいることになるから)、私の心は、それらの件に関しては、それが起きた時に留まり続けていた。私の時は、そこで止まっていた。そこから一歩も前に進めていなかったのだろう。

結局のところ、これほどに深い傷は、時が解決してくれるとか、時間の経過とともに癒されるなどということはない。これらの傷は、そんな生易しいものではなかったのだろう。
セルフケアなどでは追いつかず、キチンとした専門家のケアを受けなければ、正しく癒すこと、乗り越えることはできなかったのだ。
そのことを、ハッキリと思い知った感がある。

自分で何とかしようと、無駄なあがきをしていないで、サッサと他者の援助を受けていればよかったのに。何で、変な意地を張っていたのだろう……というものである。

やはり、ある程度を越えて深刻な心の問題は、精神療法の自学自習(自修)やセルフケアでは、どうにもならない。
自分で自分の身体をつかんで、上に引っ張りあげることはできないように。どんな天才外科医でも、自分で自分のオペはできないように(そういえば「私、失敗しないので」のあの女性医師も、自分が病気の時には、他者のオペを受けていた)。
「人は、人によりてのみ」なのである。

でも。今のこの国では。
信頼できる、本物の専門家・治療者を見つけることが、容易ではないからね……。

4/7(火)19回目
19:00~20:00

基本的に同じことに関する話でも、状況が深まってくると、そこから得られるものが変わってくる。
つまり、やはり。キチンとした時間をとって、適切な頻度で定期的に継続してゆくことが、効果を高めるためには必要だということだ。
1、2回試してみただけで、「こんなもの、何の役にも立たない」と決めつけてしまうのは、誤りとは言わないまでも、正しくないということだ。

*相手の方の機関は、所在地が東京都である。
そのため、緊急事態宣言を受け、対面での施行を全て中止し、電話かネット会議システム利用に切り替えるとのこと。
私は、元々電話だから影響ないけれど。

その話を同僚にしたら(私が、そこで受けているということは伏せて)、「精神療法は、別に不要不急以外じゃないからね……」みたいな反応が。
いや、本当に文字どおり死活問題、生きるか死ぬか……の瀬戸際で、精神療法を受けている人だって少なくないでしょう。

何かやはり、一般の人は、その辺の認識が甘いのかな……と感じた。
普段の会話などから、どちらかと言えば、精神疾患やメンタルケアといったものに理解がある部類に属する方だと思っていたから、少しショックである。

4/14(火)20回目
19:00~20:00

こうやって定期的に、本格的に取り組みはじめてつくづくと思うことは、「心の問題は、(放っておいても)時が解決してくれる」という言説は、決して正しいとは言えないということだ。

もちろん、時が解決してくれるというケースも、少なくないことは確かだ。解決を月日の経過に委ねるしかないという問題も、確かに存在する。

だが。ただ放置していては、何十年経っても何も変わらないこと、キチンと対処しなければ解決できないこともある。逆に言えば、そうした、何年経っても変わらないことも、適切な対処をすれば、解決できるということだ。

そう。ある程度の傷ならば、放置していても、自然に治る。
だが例えば、非常に深い切り傷は、傷口を縫合でもしなければ、自然にふさがることはない。適切な手当てをしなければ、いつまで経っても傷口は開いたままで、癒えることはない。何年経ってもズキズキと痛み、血を流し続ける。

満身創痍になった時には、無理に一人で何とかしようとがんばらなくても、癒し手・治し手の力を借りても構わないのだと。
もちろん、治すのは自分自身の治癒力であったとしても、専門家に援助を求めることは、決して悪いことではないのだと。

4/21(火)21回目
19:00~20:00

2つの点について、最近、変化してきたと感じることがある。
それが、この営みの成果なのか否か、まだ確実ではないから、明記はしないけれど。

この営みは、効果の判定が難しい。なぜなら、それを受けた者に変化が生じたとしても、その変化はこれがために生じたのであって、他の何かによるのではないと、立証することが困難であるから。

そう。例えば認知行動療法のように、表面的な症状そのものを、直接的に何とかしようというアプローチであるならば。その成果・効果は判定しやすい。エビデンスも得やすいというものだ。

だがこれは、そのような個々の症状にアプローチするものではない。表面的な問題と取り組み、その解決を目指すのではない。
そうした表層的なものではなく、深層に働きかけるもの。もっと根本的な問題に取り組み、その人を根底から変えてゆき、その結果、症状もよくなってゆくといった方向性のものである。

そうであればこそ。このアプローチは、日常生活・社会生活を、それなりに送れている人が対象となる。
生活できないほどに症状が重かったりする人は、即席で効果が得られるアプローチの方が望ましい。
じっくりと腰を据えて、その人を根本から変えていこうなんて、悠長なことをしている暇はない。

その辺りの適応を間違えると、「○○なんて何の効果もない。何の役にも立たない……」といった誤解が生じてしまうのだろう。

4/28(火)22回目
19:00~20:00

やはり、森田療法の専門家(森田療法学会認定心理療法士の資格所持)の方にしてよかった。
30年以上、誰にもどこにも相談できなかった……というか、相談しても相談内容を理解さえしてもらえなかったことについて、的確な答えが得られるから。
30年前、いやせめて20年前に、森田療法の専門家に相談できていたら、もう少しマシな「現在」を獲得できていたのだろうが。こればっかりは、仕方がない。
森田療法に出会ったおかげで、5割は治せた。だが、複雑な病態であるがゆえに自学自修では行き届かず、専門家の指導を受けるのが望ましかったのに、それを得ることができなかったから。
専門家の方からすると、不必要な苦労─必要以上に苦痛を感じて治療実践をすること─を続けても、それほど効果が得られないという、酷い年月を過ごすことになってしまったわけだ。

何か。そうやって、ひとりで一生懸命、死にものぐるいで苦行を重ねてきたこと。治すためにはこの道しかないのだと思い込んで、できない無理を無理矢理に続けてきたこと。そんな風にがんばってきた自分が、妙にいとおしくなってしまった。本当によくがんばったねと、ほめてあげたくなってきた。
森田療法をやる人は、みんな、こういう苦行をするのだと思っていたけれど。キチンと指導を受けている他の人は、ここまで苦労してがんばったりはしないのだと。自分は、特に(その必要もないのに)苦労してきたのだとわかったら。その努力を、肯定的に評価してあげたくなった。

決して、無駄な努力をしてしまって損をした、とは思わない。
ただ、「客観的に見て、自分は人一倍がんばってきたのだ。自分の努力が足りなかったから、今まで治らなかったわけではないのだ」とわかって、自己否定の念が薄れたのだ。自己認識というものが、大きく変化しつつあるのだ。

5/5(火)23回目
19:00~20:00
GWでも、ご希望に応じてやってくれるという。
やってもらう方はうれしいが、休みが少なくて大丈夫なのかと、心配になってしまったりもする。


自分で、「この療法ができる治療者にかかろう。それができるのであれば、医師でも心理士でも構わない」と思って始めたことだから、受けている療法に関しては、不満はない。
ただ時々、やはり大きな病院で医師にかかりたかったよな、と思ってしまうことがある。
自分の身体の状況について、身体医学の専門家(精神科医であっても、医師国家試験は受けているのだから)である医師に相談し、必要に応じて検査もしたり……ということができれば、理想的なのだと。
いや別に、自分には何か身体的な病気が隠れているのでは……とか、そんなことを疑っているわけではない。そんなことを考えたことは、発症以来一度もありはしない。
そういうこととは別の次元での、「身体的な状況に関する相談」なのだが。
医師では、私が何を相談しようとしているのかすら、理解しようとしない─その手の病人の、よくある思考パターンに当てはめることしかしない─のであるから、仕方ないわけだが。

少なくとも、こんな田舎に住んでいたのでは。
神奈川辺りの大きな精神科病院のように、週に1回ずつ50分のフォーマルな精神療法を、キチンと話も聴ける医師が行うなんてことは、あり得ないのだから。
さすがに、会社勤務をしている今の状況では、そこまで通うことはできない。

5/12(火)24回目
19:00~20:00

いつもは、翌日か翌々日には追記をするのに、今回は週末の休みに入ってからになってしまった。
仕事の方が、また立て込んできたせいと、セカスクの僧侶系で100位以内に入るためのプレイに、多大な困難を要したせいだと思う。
そう。私が1日に使える心身の労力・気力には限りがある。これに力を注げば、あちらに手が回らなくなる。何を第一にして何を捨てるかの取捨選択が、自然になされてしまうということだ。

やはり、森田療法の専門家の先生から見ても、私の身体「症状」は微妙なところがあり、ひたすらに森田式で行くのが適切なのかどうかは、簡単には決められないようだ。

「<身体が苦しい・辛い>ということも、事実として認めてよいのだ」という保証が得られると。
今まで私を苛んできた、「森田療法の実践のあり方が中途半端だったから、いつまで経っても症状を乗り越えられないんだ=いつまで経っても治らないのは、森田の実践をキチンとやらなかった自分が悪いんだ」という思いから、解放されるように思う。

5/19(火)25回目
19:00~20:00

5/26(火)26回目
19:00~20:00

25・26回目分追記:6/1 0:02~
25回目は、「***ではない(部分もあると、私は判断します)」という、今までずっと、30年以上、求めていた答えが得られて、とてもよい感じで終了したのに。
そのことについて記せなかったのは、そのことを書いてしまうと、心理療法のことがよくわからない素人さんに批判されてしまうことを、警戒していたのだろうと思う。
(そして、そうした警戒は正しかったと、最近のコメントでメンタルがかなり危うい状態になったことで確信した。素人の読者が何をどう読むか、それは私にコントロールできないのだから。どこでどんな風に足をすくわれるか、わかったものではないのだ。)

そして26回目、そのことをさらに深めていった。
そうして最後に、「これからは、楽にがんばれます」という、なかなかおもしろい、よい言葉を発見して終わった。
本当にこれは、森田療法の適応に関する、複雑で微妙な問題だから、やはり、専門家に相談しなければ、どうにもならなかった。
そして専門家ですら、半年の間、話を聴き続けなければ判断できなかった。そういうものである。

だから、それを得るまでに34年ほどがかかってしまったのは、ある意味仕方のないことでもある。

先生のブログにある、以下の記述。
「このところ、長い間森田療法を自分で学習していながら、まったく楽になっていないという方々と接する機会が多くありました。

そのかたたちの苦しかった年月のことを思い、無駄にしてしまった時間を思うと、とても残念な気がしています」
http://angiem.blog137.fc2.com/blog-date-201910.html

この「方々」の中には、確かに私も含まれている。
もっと早くに、この先生に出会えていたら、私の人生も、もう少し違ったものになっていたのかもしれない。とはいえ。めぐりあわせというものは、本当に、どうしようもないものである。

(念のために言っておくと、「無駄にしてしまった時間」というのは、この先生が言っていることであって、私が自分の人生を評価して言っているのではありませんから。
そこのところ、お間違えのないように願います。)

6/2(火)27回目
19:00~20:00

安定してきたから、間隔を2週間後ぐらいにしましょうか……という言葉が、やはり(?)出てきた。
だが、これに関しては、社録先生の外の人の見解に従い、1週間後にしてもらった。

〔実施後追記〕
前回、別に図(測)ったわけでも、狙ったわけでもないのに、なぜかピッタリ26回・2クール、ほぼ半年で、とても有意義なひと区切りとなったわけだが。

新たな気分で、次に進み始めたとたんに、表面化した問題。あの医師との一件が、私にとって、これほどの傷になっていたとは。
自分でも意外だった。これまでは気づいていなかった。もう30年も前のことなのに、こんなにも鮮明に残っていたとは。今ようやく、それを自覚して取り組める状態になったということだろう。

玉ねぎの皮むき。

心の問題に取り組む行為は、しばしば、これに喩えられる。
ひとつの問題を片づけて一枚の皮をむいても、その下にある新たな問題──それまでは、その上の皮に隠れていて見えなかったもの──が表に出てきて、今度はそれと取り組まざるを得ない。

そうやって、一枚一枚、皮をむいてゆく。いつになったら終わりが来るのか。もしかしたらこれは、無意味なことなのではないかと、不安になることもあるだろう。

そうこうしているうちに、実がどんどん小さくなってきてしまい、これでは、終わったら何も残らなくなってしまうのではないかと、心配になることもあるのだろう。

でも私はまだ、2層目だから。とても重要で頑固だったものを片づけて、やっと次に進んだばかりだから。
今はとにかく、先に進んでゆこう。

6/9(火)28回目
19:00~20:00

玉ねぎの皮むき、継続中。
一枚がめくれると、また次。思いもよらなかったもの、意外な層が、表面化してくる。
もう、30年も前のことなのに。こんなに鮮明に残っているものなのだね。

その、次々と続く皮むきを、おもしろい・興味深いと感じて、楽しみながら、前向きかつ積極的に取り組んでゆけるのか。
辛い・ウザイ・苦しい、等々と感じてしまって、嫌々ながら後ろ向きに消極的にしか行えないのか。

それによって、治療の成果には、大きな違いが出てきてしまうことだろう。
私は、思いっ切り前者だから。自分(の感情)と向き合うということは、全然、嫌ではない。
元々、そういうことが好きなのだから。

そういうことをやってもよいのなら(治療のためには、そういうことはやらない方がよい、というのでなければ)、いくらでもやる。どんどんやる。

そろそろ、成果があがったということで、正式な記事を書かなければと思っているところだ。


6/16(火)29回目
19:00~20:00

やはり、森田療法の専門家の先生だと、森田療法独自の用語を使っても、スッとわかってもらえるのがよい。
体調の乱れに関して、「自律神経系は、いってみれば内なる自然だから、『自然服従』で……」と口にしても。森田独自の用語法としての「自然服従」なので。専門外の人が、普通に聞いてイメージするものとは、全く異なるのである。

と同時に。ロジャース的な傾聴と受け止めと返し。あの施設でのことを、さらに深めてゆける。

森田療法の専門家でありながら、同時に、ロジャース的に話を聴ける。森田療法の治療者資格を持っている心理士というのは、かなり数が少ないと思うが。本当に、貴重な存在である。
出会いのきっかけをくれた、FC2ブログに感謝!

※上(前回分)に記した、成果を報告する記事は、もう少し先になりそうだ。
6月第1週の半ばから生じた、人間関係の些細な行き違いの関係で、私の心が大きく乱れるとともに、それへの対応に多大な時間と労力を費やしてしまったため、ゴミ屋敷脱出作戦で大きな成果があがりそうだったよい流れが、ストップしてしまったからだ。

その行き違いは無事に解決した。相手との理解と関係性が深められたので、今回の問題は、決して悪いものではなかった。結果的には、むしろよいものですらあったかもしれない、のだが。

「何を言っても、わからない人にはわからないわ」ではなくて、「話をすればわかるんだ」というケースも、決して皆無ではない。今まではずっと、前者ばかりだったけれど。

私がキチンと適切に、うまく伝えられるとともに、相手の方にもわかろうという意思、話をキチンと聞こうという姿勢があり、相応の努力をするならば、わかってもらえる時もある。私の話をちゃんと聞いて、わかってくれる(素人[=セラピスト等ではない]の)人も、この世には一人くらいはいる。
そのことが証明された今回の一件は、本当に、結果的にはよかったのだが。

それでもやはり、今回の件をきっかけにして、ゴミ屋敷脱出作戦が止まってしまったということもまた、一面の事実ではあるのだ。

6/23(火)30回目
19:00~20:00

6/30(火)31回目
19:00~20:00

〔7/5追記〕
先々週・先週と追記・更新が止まってしまったのは、やはり、セカスク由来のメンタルトラブルのためだろう(あくまでも私が、非常に心外な噂話を目にしてしまったがために、独りで勝手に傷ついただけなのだから、ゲームでの人間関係のトラブルと呼ぶのは、正しくない)。

30回目のセラピーを終えて、夕食の支度をする前にゲームにログインして、気になっている・心配している人の伝言板を見て、そこから、何人かのコメントをたどって見たところで、ソレを目にしてしまったのだ。

そのコメントが書き込まれたのは、事があった6/22の夜(夜戦の後)だろうか。それとも、6/23の日中? ショックで、そこまで見ていないわけだが。
なんにせよ、ソレを見てしまったタイミングが悪かった。セラピーが終わった直後。セラピストの援助を受られるまで、丸一週間近くかかるタイミングだった。
だから結局、大部分を自分自身で解決したわけだが。
それでもやはり、今までだったらできなかったであろうこと(他プレイヤーの意見を求めるとか、変に知性化しないで、傷つきや悲しさをそのままに感じ・体験する)ができたから、一週間足らずで、それなりの結論が得られたのだろう。
そうした意味ではやはり、色々とやってきたことは無駄ではなく、役立っている、少しは変われているということだ。

そして、31回目を始める前には、もう聞いてもらわなくてもいいかなとは思っていたのだが、やはり後半に、その話を聞いてもらった。
「そんな風に曲解する人の方がおかしい」≒「あなたは悪くない」的なことを言ってもらえ、一緒に憤ってもらえる≒自分の味方をしてもらえた。

これって、私としては、ほぼ初めての経験だ。
今までは、そうした人を得ることができなかった。
やっと最近、ネット上で話を聞いてもらうことができるようになったとしても、「あなたは悪くない。相手の方が間違っている」≒「自分の味方をしてもらう」ことを求めるのは、潔くないこと・正しくないことだと感じてしまっていたから。
「どちらにも問題があった。言ってみれば、どちらも悪い」というところに着地するやり取りに、なってしまいがちだったのだ。

「自分の味方をしてもらえる」ということが、こんなにも、勇気づけられるものであったとは !!

6/26(金)に、職場で使用していた、TA協会のマークが入ったマグカップにヒビが入ってしまったので、処分した。これで、あのセラピスト氏とは、完全に縁が切れたことになるのだろうか。

7/7(火)32回目
19:00~20:00

〔8/2記〕
追記での記録を、こんなにも溜めてしまった。
それだけ、仕事の大変さが半端なくて、これをまとめている心のゆとりがなかったということだろう。

この日の朝、何の前触れもなく唐突に、「『自分の味方をしてもらえた。悪いのはあなたではなく相手の方だと言ってもらえてうれしかった』と感じていることを、あの種の人々に批判されてしまうのではないか」という、強い恐怖を感じた。

それほどに私には、このように批判されてしまうことを恐れ、批判されてしまわないために、他者を責めたり、相手の方に問題があると考えることを自分に禁じなければならないあり方が、根強く残っているのだ。
要は、そうした批判者を内面化してしまっているのだ。
なので、この回は、そのことを深めていった。

7/14(火)33回目
19:00~20:00

この回は、その少し前から、胃の調子がかなり悪くなっていたり、全般的に体調が悪かったので、主にその点について。
話していること自体は、最初の頃と似たようなものだ。
だが、30回を越える面談によって、私が感じている身体の不調の、具体的・実際的な内容、私の身体症状に関する考え方・捉え方・対し方を理解してもらえてきたので、かなり深いところで話ができているように感じる。

やはりセラピーというものは、そうやって螺旋を描いて深まって(あるいは、高まって)いくものなのだろう。

あと、12日の夜は、日曜としては珍しく0:30頃に寝つけたので、月曜日のコンディションがとてもよかった。今後は日曜夜の早寝を実践課題に……と語りはじめたが、その話はなぜか中断してしまった。そのせいか、翌週、翌々週は、遅くなってしまった。

7/21(火)34回目
19:00~20:00

何らかの流れから、前から感じていて、ここに書こうとして止めたこともある「2つの成果」について話した。
1、怒り発作が目に見えて減った。たとえ起こしたとしても、程度が軽くて済むようになった。怒りを爆発させる沸点がかなり上がった。
つまり、気持ちにゆとりが出てきたというか、柔軟性が高まった、「まあいいや。仕方ない」と受け流せるようになった、許容範囲が広がってきた……というところだ。

2、ゴミ出しに関し、分別をキチンとしなければという、強いこだわりがなくなってきた。それゆえ、前よりもスムーズにゴミを出せるようになってきた。

どちらも、非常に強固なマイルール・こだわりに反することは認められない・許容できないというあり方、それに反する現実を前にすると、怒り狂ったりパニックを起こしてしまうという状況が、改善されてきたがゆえに、生じた変化だ。

この成果に関しては、先生も「不思議だね」と言う。なぜなら、このセラピーでは基本的に、過去の様々なことを聴いているだけなのに、そうやって、現在のあり方に変化が生じてくるなんて……というのだ。

それはやはり。何十年も引きずってきた心の傷、これまでずっとこだわり続けていたことを、ひとつひとつ、キチンと完了させたことで、少しずつ心の安定・安心が得られ、柔軟性が出てきたのだろうと思う。
これは、かなり知的な解釈ではある。けれど、自分の感情・感覚をマインドフルネス的に眺めてみた時に、体感したことでもあるのだ。

そしてこの回の終わりの方で、私は大学進学に関する「あの選択」を、とても後悔しているのだと再認識した。
もう、済んでしまったことだと思っていたけれど、実は全然済んでいなくて、もういいなんてことはなかった。
もういいというのは、無理に知性化した結果でしかなかった。あのことをキチンと後悔しなければ、十分に嘆かなければ、決して済みはしないのだということがわかったのだ。

7/28(火)35回目
19:00~20:00

前回、明らかになった「実は、とても後悔していること」について、話しはじめたのだが、どうも、うまくまとまらないというか、焦点が定まらず、とっ散らかった感じだった。
「あの選択」そのものは、端的にコレと摘示できるのに。高校の担任教師の言葉を、こんな風に誤解した結果、そんな選択をしてしまった……ということも、はっきりと説明できるのに、どうも、うまく伝わらない感じなのだ。
それでは、私が何を、どんな風に後悔しているのかということ、選択を誤ったがために、人生、特に青春時代を台無しにしてしまったと感じてしまっているということが、伝わらないのだ。

なので、この件は次回に持ち越しである。

8/4(火)36回目
19:00~20:00

前回のイマイチ感を受け、「後悔」とか「人生がだいなし」の深い思いがうまく伝わるように、詳しく語った。
すると結局、その選択に至る前段階・大前提に関する話が必要になる。
発症直後からの、「自分の病気に関する誤った認識」ゆえに、「一人だけ別の世界に住んでいた」ということ、「その世界の中で、一人で懸命に、自分にできる最善の、涙ぐましい努力をしていた」という辺りが中心となってくる。
いかに、周囲の理解とズレまくっていたかということである。

8/11(火)37回目
19:00~20:00

前回が終わった直後に、その時期に父から言われ決めつけた言葉に対する、強い怒りが出てきた。
なので今回は、その辺りに焦点を当てて話した。

そうやって、セッションで少しふたを開ける(というか、ズラす?)と、その少し後になって、その中に封じられていたものが顔を見せる、という感がある。

そうしたものに対処していくためには、やはり、1週間に1回程度の頻度が望ましいのだろう。
さもないと、継続性が切れてしまうのである。

8/18(火)38回目
19:00~20:00

〈9/21(月・祝)記載〉
*これだけ間があいてしまったのは、ブログの更新はしていたのだから、書きにくい理由があったのだ。
根の深い複雑な問題に関する成果を、簡潔に、でも読者にある程度はわかるように記すのは、かなり面倒なことだったのである。中途半端に書いて、変に誤解されるのを警戒していたということもある。

いやしかし。メモなどをとっていたわけでもないのに、5回分の記録を記憶だけで書いてしまう私って。案外、スゴいかも。
それだけ、印象に残っている事柄であるからだろうが。
………………

a. また次の地図イベが開催されているのだが、前回、あんなに傷ついて心が乱れたことについて、もうすっかり「済んでしまっている」こと、何のしこりも残っていないことを自覚して、不思議だと感じた。
結局、その時々にきちんと感じ切る─変に否定・抑圧したり、色々と不自然なはからいごとをしないで、自然のままに正しく受ければ─、うまく完了させれば、感情の法則
https://flowerhill873.blog.fc2.com/blog-entry-215.html
のとおり、自然に流れ去り消失する。傷やしこりになって、何年も何十年も残るようなことはないのだと実感した。

b. 「自分はこれまで、実に多くのヒドイ誤解をされてきた」「自分の言動は、色々と誤解を招きやすいのだ」と、思っても構わないのだという許可と支持を得られた。
許可と支持を得られたことについても、まだ、「自分の味方をしてもらえて、安心しかけていることを批判されるのではないか」という恐怖はあるけれど。もう少しすれば、安心できるだろう。

大きな変化は、自筆の文章内で予防線を張るにしても、「曲解する人もいるかもしれないが……」と、「曲解するのはその人の読み方のほうの問題で、自分の書き方が悪いからではない」というニュアンスを込められるようになったことだ。

c. 私が誤解されてきたこと、話をキチンと聴いてもらえず、頭から決めつけられてきたことは事実であるのだが。
奇跡的に「(その解釈は決めつけであって)ズレているんだよな」と父に伝えられた、唯一度のあの時も、「そんな風に思っているから、いけないんだ」と、さらなる決めつけによって叱られた。

そして私は、それがどのようにいけないことなのかが、わかってしまう、読めてしまうような聡い子どもであった。
だから私はもう、「理解してもらえなくて辛い」「誤解されて苦しい」などとは、思えなくなった。
自分が、不当な扱いを受けている、ヒドイ目に遭っているとは思えなくなった。

私は、個々の具体的な誤解の話をしているのに、「誰も私を理解してくれない」とほざいて、一人で勝手に心を閉ざしている愚かな子ども、とされてしまったり。
「私は特別な人間であり、自分の悩みは特殊なので、他の人には理解できない」と思っている、平等観に目覚めていない、程度の低い奴だと決めつけられたり。
私はただ、「それは、そうではなくて、こうなのだ」と、「私がこういう言動をしたのは、あなた方が決めつけているような理由からではなく、こういう事情があってのことだったのだ」と、説明したかっただけなのに。

単なる覚え書きのはずが、これだけでもブログの記事、数本分の内容を有している。
やはり、ここにこうして記すやり方は、再考した方がよさそうだ。

8/25(火)39回目
19:00~20:00

同い歳の同僚が、がんで亡くなったというところから。
こういう時、神経質者の多くは、自分の身体のことを気にしはじめるのだろうけれど、私は、そういう傾向がほとんどない、というところから、さらに進んで。
私は、どんなに身体の不調・症状を感じても、身体のどこかが悪いんじゃないか、何か身体の病気なのではないかとは思わない、という話に。

この辺は、先生もかなり不思議がっていらした。
じっくりと話を聴き続けるうちに、本当に私には、多くの神経質者が有しているような「身体症状への不安」は希薄なのだと、理解してくださったようで。

家庭医学書の「自律神経失調症」に関する記述を誤って解釈し、自分の身体症状に関する誤った思い込みから、森田療法に会うまでは典型的な普通神経質症・心気症に近い病態を呈していた私である。確かに変わっているとは思う。

だが私は、発症当時から、自分の身体症状が心因性のものであるということは百も承知でいた。だから、「どこか身体が悪いんじゃないか。身体の病気が隠れているんじゃないか」などということは、これっぽっちも思わなかったのである。

であるにもかかわらず。
あの精神科医は、私の言葉の端を捉えて、まるで私が……………ででもあるかのような─自分の症状が心因性のものであることを理解できず、あるいは認めることができずに、是が非でも身体面から説明してもらおうとしているような─、「出来の悪い患者扱い」をした。

その件について、つい最近まで、30年以上にわたり、内心怒り狂い続けていたのに。社録先生の外の人とのコメントのやり取りでも、この辺で地雷を踏んだ感じだったのに。
本当にもう、怒りを感じない。怒りの素となるものが、腹の中・胸の中に残っていないのだ。
未完了の思い・問題が完了した、済んだとは、まさにこういうことを言うのだと、実感した。

9/1(火)40回目
19:00~20:00

9月は、私があの施設に入った月だ。なので、あそこではなく別の施設に行っていたら、私の人生、どうなっていたのかなぁ、と。あの施設では、治療とは正反対のことばかりされたと、大人になって心理治療について学んでから、痛感したので。
まぁ、あの当時は。そうした根性を叩き直す「治療」が、まかりとおっていた時代であるから、仕方のない部分もあるのだろうが。

ちょうどこの日に、私には「楽をする・楽でいる・楽になること」を責められる恐怖感が存在する、ということを自覚したので。
そうしたものが、なにゆえに内面化されてしまったのか、という辺りを探っていった。
こうしたものの存在に気づくと、さほど苦労することなく、「それは、あいつやあいつやあいつに、こんなことを言われ続けて、それに屈従せざるを得なかったからだ」と、見えてしまう私というのは。
この辺り、あのセラピスト氏が言っていた「洞察がきく」というところなのか。

あまり長々と記してもいられないので、先生が師匠の言葉として教えてくれたもの。
「説教は、攻撃である」

こう捉えれば、説教をありがたく受け入れられない自分を、責めなくて済む。

9/8(火)41回目
19:00~20:00

ゴミ屋敷脱出作戦が進んできたので、その辺の話を。
自分でも驚いたのが、Yahoo!ブログ時代にもらった、「大丈夫です。これこれこうすれば、その散らかった部屋を片づけられますよ」のコメントについて、ものすごい怒りを内心感じていたということ。
セラピーの場で、「そんなことはわかっている! 私は別にADHDじゃないんだから、片づけ方がわからないわけじゃないんだよ!」と、突然、怒鳴り散らしてしまった。
何よりも、私自身が驚いた。

Yahoo!ブログ時代の、あの辺の記事へのコメント(助言・説教)については、まだまだ色々とありそうだ。結局のところ、治療のプラスにと思って記事にしたけれど、マイナスの方が大きかったのかも。
ブログでの発信を治療の足しにしようとせずに、さっさとセラピーを受けていればな……。

9/15(火)42回目
19:00~20:00

前々日の、かつてない程大きな怒り発作について。
一時期出なくなっていたものが、出てしまって悪かったのではなく。色々とやってきたことで封印がゆるんでいたから、深いところから噴出したのだと思う。
しかも、いったん自室に引き揚げた後に、自身の言い分を告げにゆき、伝わらないにせよとにかく告げた、伝えた、伝えられた、ということ。

この日の朝から、腕と肩にすさまじい筋肉痛を感じたことから、そこまで大暴れしたことを痛感。本当に心身への負担が半端なかったのだ。これまでの、50年分の抗議であったのなら、納得だ。それでも追いつくはずがない。

怒り発作を起こした夜、とても大切な洞察を得た。セラピーの場で起きたことではないけれど。やはり、セラピーを続けてきたからこそ、起きたことなのだろう。
論証はできないが。

その後、母の介護関連の話を主に。

9/24(木)43回目
19:00~20:00

*9/22(火・祝)は、お休みだというので(そうですよ。休んでくださいね)、かといって2週間おきになってしまうのもよくないと思うので。この日にしてもらった。
………………………
1990年代末、通勤バスの中でビジョンを見て、懸命に腕に封じているのを自覚した蛇。
必死に力を入れて押さえ込んでおかないと、鎌首をもたげそうなもの。
その、蛇が抜けた感じ。

ひどい筋肉痛になるほどの、怒り発作後の大暴れは、不当な決めつけに全身全霊で抗議したいという思い、50年にわたり、正しくない扱いを受け続けてきたことへの怨みの念であったのだ。
その、怨みの蛇を解き放って、腕にいなくなったら、なんだか腕がスカスカする。蛇が詰まっていた隙間が、空いているのだ。
そこに、何かを充填できればいいな。願わくば、友情とか人のやさしさとか。そういったポジティブなものを。

ただ。
「腕に詰まっていた蛇は、怨みの蛇であった。それが今回の大暴れで解き放たれ、抜けた」というのは、ひとつの解釈でしかない。
もしかしたら、私の想像による物語にすぎないのかも。「感じ」から出発したつもりだが、私が頭で作り出した、捏造である可能性も否定できない。
なので、もう少し、経過を見てゆこう。

身体「症状」について。
それが、程度の差こそあれ誰にでもある単なる不調を、過大に感じてしまっているにすぎない、放置すべきものであるのか。
あるいは、症状と呼ぶべきような現象が、実際に身体に生じているのか。
それを区別する指標を1つ、今回、教えてもらった。
やはり、森田療法の専門家の先生なら、そうしたノウハウも持っているんじゃないか。

もっと早く、森田の専門家の先生にかかれていたら……と、今までも何度も記していることを、あらためて痛感した。


10/6(火)44回目予定
19:00~20:00

*やはり、火曜日に固定した方がよい感じなので、かといって、5日後では早いので、一週おいた次々週の火曜日に入れてもらった。

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テーマ : 医療・病気・治療
ジャンル : 心と身体

Tag : 精神療法  森田療法  介護  非正規 

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| 2019/10/21 09:13 [ 編集 ]

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| 2019/10/22 01:02 [ 編集 ]

Re: 10/21非公開コメントさん
応援、ありがとうございます。励みになります。

ただ、私が始める決意をしたことの具体的内容は、ご想像とはかなり違っているのではないかと、不安を感じます。
実際のところを紹介したら、「何だ、そんなことだったのか」と、ガッカリされてしまうのではないかと(そういった不安とのつきあい方は、マスターできているので、問題ないのですが)。

あと、私が今回行うことは、それ自体が目的ではなく、特定の目的を果たすための手段にすぎません。
その目的を達成するためには、やはり、どれ程高額な費用がかかろうとも、この道しかないと思うに至ったので、それを選択した……という感じです。

ハナさん* URL | 2019/10/22 16:10 [ 編集 ]

Re: 10/22非公開コメントさん
お久しぶりです。コメント、ありがとうございました。

やっていることは、抽象的な言葉にしてしまえば同じでも、その実際──それに費やされる時間とか、個々の行為の負担とか──は、比べものにならない程、(今は)私の方が楽でしょうけどね。今はまだまだ、自分のための時間も、かなり取れますから。

まぁ、詳しいことは、具体的な詳細を明かしてからのお楽しみ……ですね。
上のリコメでも記しましたが、ガッカリされてしまわないように……。

ハナさん* URL | 2019/10/22 16:20 [ 編集 ]

はじめまして
はじめまして(^^)いつもこちらの記事の更新を楽しみにしています。私のほうのブログにも時々お越しいただいてありがとうございます🙏😊

身体的なことだともしかするとピーター・A・ラヴィーンさんのソマティック・エクスペリエンスという療法に関する本が参考になるかもしれません💡私自身も今勉強中なんですが、身体が固まっていて緊張しやすかったり、痙攣したり、そういうものも記憶の問題を解決することで解決するらしく、画期的です😳✨

いきなり差し出がましいコメントですみません🙏🙇‍♀️同じように自分で自分の状態に取り組んできて悩んできたので、ついコメントしてしまいました🙏今取り組んでいらっしゃることも順調なようでよかったですね!✨ますますうまくいきますように🙏✨

haakunmama URL | 2020/05/09 16:19 [ 編集 ]

Re: はじめまして
コメント、ありがとうございました。

> いつもこちらの記事の更新を楽しみにしています。

そうなのですか!(←こういう言葉は、真に受けてしまいます。外交辞令とかではないと。単純ですね)
重ねてお礼を申し上げます。
Yahoo!ブログからFC2に引っ越してきて、1年近くになりますが、こちらでは読者の方からのリアクションが少なくて、かなりブルーな気分になっていたので、そう言っていただけると、とてもうれしいです。

> 身体的なことだともしかするとピーター・A・ラヴィーンさんのソマティック・エクスペリエンスという療法……

アドバイス、ありがとうございます。
とりあえず、ネットでこの療法の概要を調べてみました。
残念ながら、私自身の「問題」とは、方向性が少し異なるようです。
この記事の追記では、自分の覚え書き程度の記述で済ませ、詳しい説明をしていないため、読者の方には、私の状況がうまく伝わらなかったのだと思います。

> いきなり差し出がましいコメントですみません

そのことがおわかりでも、それでもあえて、よさそうな療法のことを、この人に伝えたいと思ってしまう。
そうしたことは、私にも覚えがあります。そして、そうした思いから書き込んだアドバイスを拒絶されて、善意を踏みにじられたように感じ、辛い思いをしたことも。

たとえ、結果的にやや見当外れであったとしても、真摯な思いから発したアドバイスであれば、私は、とてもうれしいと感じて、受けとります。
健常者が、愚かな病人を教え導いてやろうとするような、上から目線のご指導でなければ。

私自身の治療のうえでは、あまり有効ではないかもしれなくても。心理療法のセミプロとしては、新しい療法の情報はとても貴重で、興味深いものでした。

2000年頃から10年近く、心理療法の類いと縁を切っていたので、かつて学んだ知識が更新されずに古くなり、新しい療法についても知らないことが多いのです。
教えていただいて、ありがとうございました。

これからも、よろしくお願いいたします。

ハナさん* URL | 2020/05/10 01:35 [ 編集 ]


そう言っていただけてよかったです(^^)
私自身、この療法の情報に辿り着いたのがごく最近なんですが、本当に全く新しい切り口で、人類の叡智に感動を覚えました✨本好きの方、同じような知識を学んでいる方とこの感動を共有したいという気持ちがついつい強くなっていて😅💦仲間探しをしています😂
あたたかいお返事、ありがとうございました😊
こちらこそ今後もよろしくお願いします😊🙏

haakunmama URL | 2020/05/10 15:51 [ 編集 ]

こんばんは
蛇の例え、きっと気のせいではないと思います、すごくよくわかります。SEの本によると人間の防衛反応のエネルギーは主に腕や背中、顎などに溜まることが多いんだそうです。今回、怒りの感情が発散され、そのエネルギーが外に出たんじゃないでしょうか。私もやはり数ヶ月前、父に対しての怒りで大暴れし、筋肉痛になったんですが、その後格段に身体が軽くなりました。昨日も別の記憶でかなり強い怒りが出てきたんですが、それを思い切り感じ切ったら、また一段葛藤が減った感じがします。
ハナさんの記事を読んで、森田療法について改めて少し調べたんですが、森田療法ってこんなに深かったのか!もっと勉強したいと感じました。ありがとうございます🙏

haakunmama URL | 2020/09/27 22:37 [ 編集 ]

Re: こんばんは
コメント、ありがとうございました。

蛇のイメージ。おっしゃるように、幻想でなければよいと思います。

やはり、そういった体験、おありでしたか。
なんか、そのようにいかにもありそうな話というか、うまくハマりすぎている感じなので。逆に、警戒してしまっている感があります。
よくある喩え=既成の枠組みに飛びついて、頭で捏造してしまったのではないかと、危ぶんでしまっているのです。

> 森田療法ってこんなに深かったのか!

そうなんですよね。
森田って実は色々と奥が深いのに、技法の表面的なところしか理解されていなかったり、「あるがまま」ばかりが強調されて(しかも、往々にして不正確な理解で)、それだけだと思われてしまったり。
なかなか真価を認められず、不遇な感があります。

近年は、東洋の認知行動療法として注目されたり、今流行りの、マインドフルネスとの関連性が語られて見直されたりしているようですけど。

ハナさん* URL | 2020/09/28 19:28 [ 編集 ]


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プロフィール

ハナさん*

Author:ハナさん*
2019.5.26付けで、Yahoo!ブログから移行してきました。
上記日付より前の記事は、Yahoo!ブログで書かれたものです。

移行から2年経過したのを機に、ブログタイトルを変更いたしました。
あわせて、紹介文も更新。

*代用ゲストブックあり
「カテゴリ」からどうぞ

〔ブログ紹介文〕
誰もが、たやすく発信者となれるネット時代。

文章で社会改革ができると思い込んでいたのは、若さゆえの過ちにすぎない。
けれど。
それでもまだ私は、文章を公表することは、無意味ではないと信じたい。

私がここに記すのは、単なるつぶやきの類いではない。
社会に向かって訴えたいこと、公表する意味があると思えることのみだ。
若い頃のように気負い込んで、大声で叫ぶことはできないけれど。

病気ではなく、障害でもなくても。諸々と生きづらい、おひとりさま介護の日々においても、光を求めて!

〔自己紹介〕
高校1年で発症した神経症性障害(身体表現性障害[身体症状症]その他)を、40年近くかけて乗り越える。
校正者として、非正規雇用勤続30年。数年前から校閲の仕事も行う。

1990年代、森田療法の研究で学士号取得後、カール・ロジャーズの直弟子が講師であるカウンセラー養成講座で単位取得。
地元の民間心理相談機関でセラピストのインターンとなり、各種心理療法を学修するが、自分は援助職には向いていないことを痛感。

アニメーションの研究で修士号取得。
博士課程・単位取得満期退学。
現在、博士論文のテーマを再検討中。専門は、巨大ロボットものの予定。

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