02.25
病病介護川柳・29:天職に捧ぐ人生……
天職に捧ぐ人生悪くない
天職はわざわざ探すものなのか
天職を招いた幸をかみしめる
*10代、20代の頃は、生涯の夢を果たすための仕事に、己の人生を捧げ尽くすことを理想としていた。
けれど、病気その他の事情で、生涯の夢に直結する仕事には就けないまま、終わりそうである。
それでも今は、生涯の夢に少しはかすっていて、やり甲斐のある仕事ができる状況にある。
何よりも自分に合っていて、自分の能力を十全に発揮できる仕事を、行えている。
知識や能力において、自分にしかできない、責任のある仕事を任されて、充実した日々を過ごせている。
現在の健康状態では、フルタイムに近い勤務に加え、残業などをこなせば、家のことはほとんどできなくなってしまい、自宅はゴミ屋敷と化している。
仕事を人並みにキチンとこなせば、活動できる余暇がほとんどなくなってしまうのが、現状なのである。
かつて理想としていたように、余暇も全て、あえて仕事に捧げるのではなく、健康状態ゆえに、全てが仕事に捧げられてしまっているような日々。
けれどもしかしたら、これはこれでいいのかもしれないと思う。
少なくとも、今の仕事ならば、自分の人生を捧げることになってしまっても、悔いはない。
そう思えるほどに、自分を生かせる、やり甲斐のある仕事を、行えているのだ。
勤務先を変えなくても、職場の仕事内容の方が、私に適した私好みのもの、私の知識や能力を生かせるものへと、変化していった。
この幸運を、何よりも喜びたいと思う。
最近ネットの広告などで、「あなたの天職を見つけましょう」「あなたに合った仕事ならば、病気や障害があってもうまくやれるはずです」といった記事を目にする。
けれど天職というのは、そうやって、わざわざ探すものなのであろうか。わざわざ探さなければ、見つからないものなのだろうか。
天職というものは、そんなことをしなくても、自然に自覚できるというか、当然のように、自分でわかるものなのではないだろうか。わざわざ探さなくては見つからない、わからないようなものは、天職と呼ぶに値しないのではないだろうか。
まぁ、世の中には、自分が何をしたいのかわからないとか、何が自分に向いているのかわからない、好きなものがない、やりたいことが見つからない……などという人も、少なくないらしい。
そういう人々は、自分に適した仕事も、わざわざ探さなくてはならないのだろう。
そもそもの始めから、自分に最適な仕事がわかっていた自分は、そうした意味でも幸福だったということだ。
そして。たとえ過酷な環境であっても堪え忍んでいれば、いつかは認められて、花を咲かすことができる。真面目にがんばっていれば、いつかは報われる時が来る。
これは、そうしたおとぎ話が現実のものとなったという、幸福な話なのかもしれないと思う。
※以下の関連記事も、よろしければご併読を。
置かれた場所で咲いてしまった─収入よりやり甲斐を
https://blogs.yahoo.co.jp/chp31240/66011383.html
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