11.24
精神科の薬に関する究極の選択?
向精神薬は依存性が強く、離脱症状もキツいとは聞いていた。だが、急に止めた等ではなく、1回飲み忘れただけでも、離脱症状が出るものであるのなら、それは大変だなぁと思った。
40年近くになる精神疾患歴の中で、向精神薬を飲んだ期間が延べ10年に満たない──ここ20年近くは、ほとんど飲んでいない──自分は、そうした意味では、幸福なのかもしれないと思った。
→「私は、向精神薬を飲んでいません」
https://blogs.yahoo.co.jp/chp31240/66030347.html
だが、別に私は、すき好んで向精神薬を飲んでいないわけでない。「そうした薬は毒でしかない」とかいう方々に与するがために、飲まないのではない。向精神薬を、否定しているわけではないのだ。
ただ、向精神薬を飲んでも効かない──効果が感じられず、副作用ばかりを強く感じて、生活に悪影響しかもたらさない──から、飲まないだけである。
身体疾患の薬のように、どんなに副作用が強くとも、飲むことによって病気が治るのであれば、副作用も厭わずに、飲むしかない。だが、向精神薬の多くは、病気を治すためのものではない。投薬は、対症療法にすぎない。
少なくとも、かつて存在した神経症 / 精神病という区分では、前者に属する精神疾患を治すのは、薬ではなく、精神療法である。そう思えばこそ、これまでずっと、精神療法の自学自習を続けてきた。
向精神薬を飲むことによって、症状が軽減されたり、できないことができるようになったりするのであれば、どんなにいいだろう。たとえ副作用があっても、それを上回る効果を感じられるのならば、飲みたいとも思う。
薬を飲むことによって、症状が軽快し、正社員としての就職がかなった方のことを、うらやましいと思ってしまうこともある。
世の中には、薬を飲まなければ、社会復帰ができない病態の方も、少なくないだろう。いや、薬を飲んでいてすら、働きに出たいと思ってもそれを果たせない等で困っている方も、たくさんいるはずだ。
それは、病気の重さ軽さや、当人の強さ弱さ、意欲のあるなし等とは別の、病態をはじめとした種々の状況によって、違ってくることだと思う。
今回、あらためて感じたのは、薬を飲んで、副作用や離脱症状等に苦しみつつも病気を軽快させるのと、薬の助けを借り(られ)ずに、自助努力で病気に対するのは、一種の「究極の選択」なのかもしれないということだ。
そのどちらを選ぶかは、当人次第。そういうことである。
- 関連記事
-
- 精神科の薬に関する究極の選択? (2018/11/24)
- 私は、向精神薬を飲んでいません─減薬・断薬の記事を読んで思うこと (2018/04/14)
- 本当はいけないのだが─十数年ぶりの向精神薬 (2017/01/28)